2017年04月14日

結局高知に帰れてないんですね>ハルウララhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170403-00010004-spht-horse

yahoo:「【あの時・負け組の星ハルウララ】(1)名手・武豊が乗っても勝てなかった
yahoo:「【あの時・負け組の星ハルウララ】(2)「火の車」だった高知競馬
yahoo:「【あの時・負け組の星ハルウララ】(3)“当たらない馬”から生まれたお守り
yahoo:「【あの時・負け組の星ハルウララ】(4)高知競馬の廃止危機救った驚異の売り上げ
yahoo:「【あの時・負け組の星ハルウララ】(5)ラストランから13年、今も丈夫そのもの

負けても負けても走り続け、“負け組の星”と呼ばれた一頭の牝(ひん)馬が、日本全国で空前の大フィーバーを巻き起こした。デビュー以来、一度も勝ったことがない高知競馬のハルウララに武豊が騎乗した2004年3月22日の106戦目は馬券が全国発売され、人々が熱狂した。ブームの裏側には、廃止寸前だった地方の競馬場で生き残りを懸けて戦った人々がいた。(特別取材班)

 のちに無敗の3冠馬となるディープインパクトが騎手の武豊とのコンビで04年12月にデビューした。その9か月前の3月22日、高知競馬場。デビューから105戦して一度も勝ったことのない8歳牝馬の背中に、名手はいた。

 その名はハルウララ。420キロ前後の小柄な馬体で、負けても負けても走り続けることが話題になったアイドルホース目当てに、全国から応援ツアーが組まれ、競馬場に観客が押し寄せた。発走2時間前に1万3000人を数え、初めての入場規制。入りきれないファンは近くの陸上競技場でスクリーン観戦しながら応援した。重賞でもない下級条件レースの馬券が全国で発売され、地元テレビ局は特別番組を編成。東京のラジオ局が実況中継し、関西のテレビ局は生中継した。報道陣は86社、350人。明治19(1886)年からの歴史を持つ高知競馬は、空前絶後の大フィーバーに沸いていた。

 高知10R「YSダービージョッキー特別」(ダート1300メートル)。夢タッグが実現し、全国の期待と単勝1番人気を背負った“最弱ヒロイン”は、11頭立ての後方を追走。武豊が3コーナー手前から手綱をしごくが、先頭にははるか届かない。大歓声と拍手を浴びたブービーの10着に、名手は「どうすることもできなかった。でも、全然ダメじゃない。ちょっと走らないだけ。競馬を知らない人をこれだけ引き寄せた。ある意味では名馬です」。

 同時刻、国会内で開かれた自民党役員会の冒頭。首相の小泉純一郎は、周囲に「ハルウララはどうなった?」。結果を知らされると「負けたかー。武豊が乗ってもダメかー」と悔しがった。

5日後、27日の米ワシントン・ポスト紙は1面でレースと日本の熱狂ぶりを写真付きで報じた。「世界で最も厳しい競争社会」の日本で、負け続けるハルウララは「日本のGanbare(頑張れ)文化そのものだ」と、ブームが日本中に広がった様子を紹介した。

 あれから13年。武豊が言う。「勝っちゃったらどうなるかなと思って乗ったけど、やっぱりボロ負けだった。勝たなくて人気になるのは不思議だけど、話題を集めるのは才能の一つ。あれだけ走って負けるのは逆に難しいと思うんだけど…。競馬を知らない人でもオグリキャップ、ディープインパクト、ハルウララは知っている。勝てなくても一生懸命走る姿が共感を呼んだんじゃないかな」

 考えられないようなブームが生まれた背景には、ハルウララが走る高知競馬の苦しい台所事情があった。=敬称略=

 ◆高知競馬のハルウララ 父ニッポーテイオー、母ヒロイン(父ラッキーソブリン)。1996年2月27日生まれ。北海道・三石町の信田牧場の生産。高知・宗石大厩(きゅう)舎から98年11月17日にデビューし、5着。高知競馬で走り続け、113戦0勝。2着5回、3着が7回。04年8月3日の5着がラストラン。06年に競走馬登録を抹消され、10歳で現役引退。総収得賞金は112万9000円。


ひさしぶりにハルウララの名前を見ました
高知競馬で一世を風靡して
欲ボケババァに拉致強奪されて、そのまま故郷へ帰ることすらできない、とってもお気の毒な馬っこです
強欲ババァをなぜか擁護する人がいますけど、拉致したものの結局養えきれずに手放した阿呆なのに、よくやったと言えるのが不思議です

千葉県知事にモーションかけたり、いろいろ金策をしたようですが、拉致した事実が広まってどうにもならなくなったんでしょうね
金のなる木と思ったんでしょうけど、高知競馬で走ってこそ価値があるってことに気がつかずに金を独占しようとしてすべてを?失うことになったアホ

ウララは未だに高知へ帰れないけど、どうにもならないのでしょうか?
安西が一蓮托生で帰れない呪いをかけたんでしょうかねぇ


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ここから続き分
その2
「行けっ、吉田! どっかが食いついてくれる」。高知県競馬組合事務局。企画総務班長の山中雅也の威勢のいい声に押されるように、広報担当の吉田昌史がファクスの一斉送信ボタンを押した。2003年6月21日のハルウララ89戦目に向けたニュースリリースが流れた。

 『負けても、負けてもあきらめずに、ただひたすら初勝利を目指すハルウララ号が(中略)出走を予定しています。私たち人間なら、とっくの昔にあきらめていたのではないかと思われるほどの気の遠くなる挑戦を続ける同馬に、どうかご声援よろしくお願いします』

 馬主、調教師、騎手、厩(きゅう)務員に組合職員、従事員ら約700人が関わる高知競馬の経営は火の車だった。02年度末、累積赤字88億円を抱え、県と市が負債を背負う代わりに新たな赤字を出さないことが「存続」の条件とされた。当時の組合トップで管理者の前田英博いわく、「死刑(宣告)に等しかった」。新年度の03年4月1日、県庁からの出向者の1人が、「俺が高知競馬を救う」と志願した山中だった。「最後のチャンスと思たきね。最初に、みんなで掃除しませんかって言うたんよ」

 当時の競馬場はゴミが散乱する薄汚れた“鉄火場”。自らトイレを磨き、職員たちと一緒に前田も汗をかいた。存廃に直結する馬券の売り上げ増には、ファンに足を運んでもらわなければ始まらない。吉田は、騎手の妻たちと一緒に繁華街で開催をPRするチラシ配りもした。だが、7月には賞金大幅カット、5万円の出走手当半減などのリストラが待っていた。

 そんな折、6月13日の高知新聞夕刊で、88連敗のハルウララが「1回ぐらい 勝とうな」の見出しで大きく紹介される。実況アナウンサーの橋口浩二が仕事に必要なデータを調べるうち、その存在に注目。存廃問題を追う地元紙記者の耳に入ったのだ。

 すでに背水の陣。山中が飛びついた。

 「ハルウララを(広報)したらどうな」。「負け続ける馬、取り上げるの、おかしないですか」。

吉田には負けて有名になるなんてタブーじゃないかという迷いがあった。何より連敗馬が話題になるのか。それでも…。

 リリースを書き上げると、管理者席に持って行った。前田も首をひねりながら了承した。それが、全国、世界にまで届くニュースにつながるとは、誰にも考えられなかった。

 前代未聞のリリースから数日後、毎日新聞の地元記者から取材の問い合わせが来た。中四国版のみのはずが、7月23日朝刊の全国版で掲載。その日の朝7時、フジテレビの情報番組「とくダネ!」からの電話を取ったのは、早朝出勤の前田だ。ハルウララの写真をメール送信し、生放送に間に合った。全国のお茶の間にその存在が届けられると、状況は一変していく。=敬称略=

 ◆連敗馬 ハルウララの存在は、ほかの連敗馬にもスポットを当てた。デビュー161連敗し、92年に未勝利で引退したハクホークイン(南関東)の記録が掘り起こされ、デビュー108連敗で03年末に引退した愛知のグレースアンバーなど、ほかの地方競馬でも現役の連敗馬が話題に。地方競馬全国協会によると、12年まで愛知などで走ったマイネアトリーチェの192戦全敗が現在確認できるデビューからの最多全敗記録となっている。

その3
負けても負けても一生懸命走り続ける。負け組の星、リストラ時代の対抗馬…。全国で流れた連敗馬のニュース。中央競馬ではない地方の、それも廃止寸前の競馬場から現れたハルウララは、世間の共感を呼び、時の馬になっていく。

 高知競馬の元1000勝ジョッキーで、調教師の宗石大が2003年当時を振り返る。「なぜ、どんどん取材に来るのかなあと。僕自身はイヤでしたよ。勝ってなんぼの世界で走らない馬が取り上げられた。それでも一生懸命できるだけはやろかと協力してやったんですけど」

 売り上げにはさほどつながらなかったが、観客は増えてきた。吉田昌史たち職員も奮闘していた。“当たらない”馬だけに尻尾の毛の交通安全のお守りなどアイデアを次々形にした。当時は馬券に馬名が印字されない券売機だったため、ファンの声に応えて「★ハルウララ」のハンコも用意。観客が自ら単勝馬券に手押しする手作り感のある“応援馬券”だ。

 10月のレースのない日、2人連れの女性が競馬場にやってきた。応対した吉田にウララの単勝馬券が欲しいという。一人は乳がんを宣告されていた。「なんでもいいんです。この馬の走りに励まされて…」。売っていないものは売れない。困った吉田は、出馬表にハンコを押して手渡した。

 宗石がある日、自作の詩を、グッズのTシャツに載せたらどうかと持ってきた。吉田はギターを弾く。車での帰路、その詩に思いがけず曲がついた。「上から曲が下りてきてから、忘れちゃイカンと思うて歌いながら帰ったですよ」。高知出身のシンガー・ソングライター・堀内佳の編曲で、軽快なメロディーの楽曲「ハルウララの詩〜ただひたすらに〜」が誕生した。作詞・宗石大、作曲と歌は、以前の業務から連想した「スターター吉田」だ。橋口浩二のレース実況も入っている。

 ♪小春日和のバンカーに 今日もしんがりつとめます やっぱりダメね、ウララちゃん 春のゴールはきっと来る

 ハルウララは連敗を重ねていたが、11月の98、99戦は連続3着と好走。迎えた12月14日の100戦目は、東京からのツアー客など通常時の3倍の観客約5000人、報道陣約120人が駆けつけた。300枚用意したCDは完売。鈴なりのパドックで、カメラ付き携帯電話を手に背伸びするファンが「ウララちゃーん」と声を上げる。9着に敗れたが、レース後は異例のセレモニー。高知競馬を大きくアピールしたとして、県知事の橋本大二郎が感謝状を読み上げ、ニンジンの特製レイがウララの首にかけられた。

宗石は安堵(あんど)していた。「みんなハルウララを見に来るんですから。出場できんとなったら大変なこと。神経つこたわね」。心労で限界だった。これで一段落と思ったが、翌年1月2日の101戦目は、8000人を超える観客が殺到した。=敬称略=

 ◆社会現象に CD「ハルウララの詩」は04年3月、東芝EMIから初回出荷10万枚で全国発売。直木賞作家・重松清さんの「走って、負けて、愛されて。ハルウララ物語」など関連本の発売も相次ぎ、写真付き切手シート、JR四国の写真付き入場券などグッズ多数。読み切り漫画が「ビッグコミックスペリオール」で掲載され、高知競馬場で映画も撮影された。キリンビールやスーパー長崎屋のCMに出演。04年夏には高知市選管が参院選投票啓発ポスターに坂本龍馬とともに起用した。

その4
2003年12月14日の100戦目の報道に加え、5日後にNHKが「にんげんドキュメント 日々これ連敗〜競走馬ハルウララ〜」で特集すると、ファンレターが急増。全国から届いたニンジンが宗石厩舎に山積みになった。

 闘病中、リストラされた会社員、不登校の生徒も。ある女性は「私も71年間生きてきて一度も1番になったことがありません。ハルウララが一生懸命走っているのを見て、私も残り少ない人生を一生懸命に走らなくてはと、涙が出ました」とつづった。

 ♪みんなの声援うけながら いつかは1着夢に見て 私は「懸命」走ります(「ハルウララの詩」)

 04年1月下旬に、武豊騎乗の報道。3月22日は交流重賞・黒船賞に騎乗するJRA騎手が騎乗可能になる。2月初旬には、そのレースが各地の地方競馬場でも“全国発売”されると報じられた。8回線ある事務局の電話はパンクした。「1時間に1本やったのが、1分に1本どころじゃなかった」。02年高知国体で会場計画に携わった班長の山中雅也は、競馬場内外の図面とにらめっこし、計画を練った。

 「ハルウララにすがるしかない。みんな同じ方向見てるからパワーが生まれた」と広報の吉田昌史。職員20人は寝る間も惜しんで働き続けた。組合トップの前田英博が言った。「人間というのは苦しみの中だけでは前を向けない。でも、ハルウララによってお客さんが来てくれたことが、みんなの明るい希望になった」

 3月22日、高知競馬場。8か所設けたウララ馬券専用窓口は開門直後から長蛇の列で最大4時間待ちの混雑ぶり。各地の地方競馬場と場外発売所でも通常の3〜8倍の観客が殺到した。「単勝って何?」と聞く女性など多くが競馬初心者だった。最終10Rへボルテージは高まっていく。

 16時35分、106戦目のゲートが開いた。ハルウララは11頭立ての後方から。不良馬場で飛び散る泥をまともに浴びる。

 単勝1・8倍の圧倒的1番人気を背負いながら、見せ場なくゴール。先頭から11馬身離れた10着にため息がもれたが、拍手の音が大きくなっていく。

走り終えたはずのハルウララが武豊に導かれ、“ウィニングラン”。名手の粋な計らいに、この日一番の大歓声。声も出せず、両手で顔を覆う女性もいた。

 会見が行われた事務局2階の会議室は取材陣があふれた。熱のこもった部屋に響くおびただしいシャッター音。「ダービーを勝っても、こんなにフラッシュを浴びない」と苦笑した武豊騎乗の全国発売の効果は絶大だった。そのレースだけで5億円超え。ウララ出走時でさえ7000万円台だった1日の総売り上げは約8億6900万円で、過去最高の約4億5900万円を上回るレコード。03年度収支は12年ぶりの黒字となる約9200万円を計上し、高知競馬は廃止のピンチを免れた。=敬称略=

 ◆売り上げデータ 3月22日の高知競馬の1日の総売り上げは8億6904万2500円。ハルウララが出走した10Rだけで5億1162万5900円(場内・5606万8000円、場外・4億5555万7900円)と6割近くを稼いだ。10Rの単勝総売り上げは2億8631万6700円で、うちハルウララが1億2175万1200円。この日の黒船賞が2億2324万9900万円だけに破格。


その5
ハルウララはその後も走り、2004年5月に2着、6月にも3着と上位争い。弟のオノゾミドオリ、妹のミツイシフラワーとの3きょうだい対決で再び全国発売された8月3日、113戦目の5着がラストランになった。ハルウララが姿を消すと、あれだけ過熱したブームは去り、売り上げは年々減少していった。

 ハルウララで稼いだ剰余金も尽き、08年度の売り上げは過去最低。競馬組合トップの管理者で、当時は事務局長として赴任した笹岡貴文は「みんな前向きだった」と振り返る。経費を切り詰め、09年度にナイター競馬導入に踏み切ると、インターネット投票の普及と相まって売り上げは右肩上がりに回復。「強い馬づくり」を掲げ、昨年末から上位入着馬の賞金額をおおむね倍に引き上げた。16年度の売り上げは25年ぶりにレコードを更新。かつてタブーの連敗馬を売り出し、負け組だった高知競馬は強くなった。

 66歳の宗石大は調教師を続けている。「僕らご飯食べていかんとアカンからね。ほかのこと、できんですよ。ハルウララのことがなかったら、誰も高知競馬を知らんですよ。ハルウララで知ってもらったから、今の高知競馬がある。高知競馬は不滅です。高知競馬が勝ったんですよ」

 企画総務班長として陣頭指揮を執った山中雅也は高知競馬には2年いただけで県庁に戻った。「(武豊が騎乗した)あの日は、僕の仲間が年休取ってボランティアでゴミ拾いや馬券講座をやってくれたんよ。仲間? 県庁の競馬仲間よ。年1回、菊花賞に行くメンバー」。根っからの競馬好きが、地元のピンチに駆けつけた。その筆頭が山中だった。

 事業課管理班長になった吉田昌史は、場内イベントではスターター吉田としてギターを弾く。「歌うと手拍子が始まります。ほかの歌もやりますけど、一番響くらしいですね」

 ♪どうにかここまでこれたのは みんなの応援あったから(中略)夢のゴールはきっと来る(「ハルウララの詩」)

千葉県、房総半島。太平洋に面する御宿町にあるマーサファームは田畑に囲まれたのどかな牧場だ。21歳のハルウララがスタッフの宮原優子さんにニンジンをねだって甘えていた。

 「物音とか風に敏感で若い馬みたいです。乗っている時はうるさくて大変。手を緩めたら走っちゃいますね。人のことは好きで信用してますし、大事にされてきたんだと思います」

 ここで4年以上を過ごしているが、大きな病気やけがにも無縁で相変わらず丈夫そのもの。余生を見守る趣旨に賛同した、サポート団体「春うららの会」会員80人の会費で預託料を賄っている。「会いに来られて感動して泣いている方もいました」。大型連休や夏休みなど多い日には10組が見学に来ることもあった。多くのファンを集め、高知競馬を救った馬は、今もファンに支えられている。=敬称略・おわり=(取材は角田史生、坂本達洋、持井麻衣、内尾篤嗣が担当しました)

 ◆米国で短編映画に ハルウララに興味を持ったニューヨーク在住のアーティストで映画監督のミッキー・ドージェイ氏が15年に高知を訪れ、関係者インタビューなどで構成した短編映画「The Shining Star of Losers Everywhere(負け組の星、ハルウララ)」を製作。16年、カナダのホット・ドックス国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀短編ドキュメンタリー賞を受賞。昨秋、ドージェイ氏が来日し高知競馬場で上映会が開かれた。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170403-00010004-spht-horse&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170403-00010002-spht-horse&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170403-00010003-spht-horse&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170403-00010005-spht-horse&p=1

posted by ! at 22:18| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ハルウララ関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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